「私」の視点と、私がいなくても成り立つ議論
文章の種類によって、「私」の位置づけは大きく違います。随筆・批評・レポート・論文で「私」がどう働くかを示し、自分の中の主張を「誰かの主張」「私がいなくても成り立つ主張」「私ならではの見方」に仕分ける考え方と、それを文章の上で書き分ける方法を紹介します。
文章を書くとき、「私」をどう扱うかは、文章の種類によって大きく違います。エッセイでは、「私」の視点から見えることを書くことが大切です。一方、論文では、私的な視点を徹底して省き、「私」がいなくても成り立つ議論を組み立てます。
文章の種類に合わせて「私」の扱いを使い分けるには、自分の中にある「主張」が、そもそも誰のものなのかを見分ける力が必要です。そしてその力は、文章の上で、引用した誰かの主張、私がいなくても成り立つ主張、私ならではの見方を書き分けることに、そのままつながっています。
文章の種類と「私」の位置
| 文章 | 「私」の位置 |
|---|---|
| 随筆 | 私の体験や感じ方そのものが中身。私がいなければ成り立たない |
| 批評(クリティーク) | 私の読みや判断が、価値の中心。ただし、根拠を対象(作品や本文)に求め、ほかの読み手が検討できる形で示す |
| 授業のエッセイ | 私の視点から見えることが中身。ただし、その見方から何が言えるのかを、根拠と筋道で示す |
| 論証型のレポート | 私の視点は、問いの出発点や着眼として生きる。主張は根拠で支え、私がいなくても成り立つ形に近づける |
| 論文 | 主張は書き手のものだが、私的な記述ではなく、一般化できるものとして示す。私がいなくても成り立つ。文の上でも、「私」「筆者」は原則として出てこない |
上から下へ行くほど、「私」は表から退いていきます。論説・提言・啓発など、ほかの主張する文章との違いは「論文の文章と、ほかの文章」で紹介しています。
批評は、感想とは違う
文芸評論などの批評では、「私にはこう読める」という書き手の読みそのものが求められます。それでも、批評は感想とは違います。「なぜそう読めるのか」を、作品の本文や対象の具体的な所に根拠を求めて示し、ほかの読み手がその読みを確かめたり、反論したりできるように書きます。
なお、同じ文学を扱う文章でも、文学研究の論文は、批評とは違います。論文では、作品についての主張を、資料や先行研究にもとづいて、私的な読みに頼らずに成り立つ形で示します。
本や論文を評価する書評も、批評に近い文章です(「文献を読んで書くレポート」)。
論文の主張は、誰のものか
論文の主張は、書き手のものです。書き手がその主張に責任を持ち、書き手の名前で発表します。しかし、その主張は、書き手の個人的な経験や好みに頼っていません。手続きと根拠が示されていて、ほかの人が同じ手続きで確かめれば、同じ結論にたどり着きうる形で示されます。学術でいう「客観的」とは、この意味です(「日常と意味が違う言葉」)。
自分の中の主張を、三つに仕分ける
書こうとしている主張の一つ一つについて、次の三つのどれにあたるのかを、自分に問いかけてみましょう。
| 仕分け | 自分への問いかけ |
|---|---|
| (a) 誰かの主張 | これは、どこかで読んだり聞いたりしたことではないか。自分で考えたつもりで、誰かの考えをなぞっていないか |
| (b) 私がいなくても成り立つ主張 | 私の経験や好みを取り除いても、根拠と筋道だけで成り立つか |
| (c) 私ならではの見方 | これは、私の経験や立場、関心から生まれた見方か |
(a) は、気づきにくいものです。授業で聞いたこと、本で読んだこと、ネットで見かけたことは、いつのまにか「自分の考え」のように感じられるようになります。出所を思い出せたら、その資料を探し、引用として扱います。
仕分けは、そのまま書き分けになる
頭の中での仕分けは、文章の上での書き分けと、表裏の関係にあります。
| 仕分け | 文章での書き方 | 例 | くわしく |
|---|---|---|---|
| (a) 誰かの主張 | 引用として、出典を示して書く | 山田(2020)は、忘却の多くは取り出しの失敗によると述べている。 | 根拠と引用 |
| (b) 私がいなくても成り立つ主張 | 事実と根拠を示し、それにもとづく主張として書く | 学習後に眠った場合のほうが再生が多いことが、複数の実験で示されている(伊藤, 2021; 高橋, 2019)。したがって〜と考えられる。 | 事実と意見を区別する、論証 |
| (c) 私ならではの見方 | 論文では (b) の形に組み立て直して書く。エッセイや批評では、私の見方として書く | (論文)この結果は、〜と解釈できる。/(エッセイや批評)私には、この場面が〜と読める。 | 文体と表記 |
この書き分けができていると、読み手は、どの文を誰が言っているのか、どの文が確かめられる事実なのかを、迷わずに読み取れます。
私がいなくても成り立つなら、「私」を書かなくてよい
主張が「私」がいなくても成り立つ形になっていれば、文の上でも、「私」を主語にせずに書けます。私的な視点の記述を意図していないのなら、「私」も「筆者」も主語に立てないほうがよいのです。「筆者は〜と考える」は、「私は〜と考える」の言い方を変えただけで、主張を書き手個人の考えとして示すことになります。
そのため、論文型の文章では、「私」や「筆者」といった主語は、原則として出てきません。
- 文書を主語にする:本レポートでは、忘却の主な原因を検討する。
- 主語を立てずに書く:以上の結果から、忘却の多くは干渉によると考えられる。
では、自分の主張と、引用した他人の主張は、どう区別するのでしょうか。他人の主張には、必ず著者名と出典を付けます。そうすれば、主語も出典もなく、根拠とともに示された主張は、書き手の主張として読まれます。
山田(2020)は、忘却の多くは取り出しの失敗によると述べている。しかし、睡眠の実験の結果をふまえると、その一部は干渉によると考えられる。
一文目は山田(2020)の主張、二文目は書き手の主張です。「筆者は」と書かなくても、区別は伝わります。反対に、出典のない「〜と言われている」は、この区別を崩してしまいます(「レトリックとの向き合い方」)。
ただし、次のような場合には、「私」や「筆者」を使うことがあります。
- 書き手自身の行為や事情を書く必要があるとき(「筆者が実験者として教示を読み上げた」、AI の利用の書き添え、謝辞など)
- エッセイや批評のように、「私」の視点そのものが求められる文章
- 分野の慣習として、論文でも「筆者は」「私は」を使う場合(哲学・文学・歴史など)や、授業で書き方が指定されているとき
「私」の見方を、論文の主張に組み立て直す
論文やレポートでも、出発点に「私」の見方があることは少なくありません。大切なのは、それをそのまま主張にするのではなく、私がいなくても成り立つ形に組み立て直すことです。
- 私の見方:「試験の前は、徹夜するより眠ったほうが覚えている気がする」
- 問いに組み立て直す:「学習後の睡眠は、記憶の再生を高めるか」
- 根拠で支える:実験の結果や先行研究にもとづいて答える
組み立て直した論文の主張は、「私がそう感じた」ことに頼っていません。私の経験は、問いのきっかけになっても、根拠にはなりません(「問いの立て方」)。
エッセイでは、私の経験そのものを材料として書いてかまいません。それでも、その経験から何が言えるのかを、読み手がたどれる筋道で示すことが求められます。
仕分けを誤ると
| 誤り | 何が起きるか | 関係する記事 |
|---|---|---|
| (a) を、自分の考えとして書く | 出典を示さずに他人の考えを使うことになり、剽窃にあたる | レポートの不正 |
| (c) を、(b) のように書く | 私の経験を一般的な事実のように示し、根拠のない一般化になる | 誤謬 |
| 論文に、(c) のまま私的な記述が混ざる | 感想や印象の文章になり、論証として読めない | 大学のレポートとは |
| エッセイや批評で、(c) を消してしまう | 誰が書いても同じ文章になり、その文章ならではの価値がなくなる | レポート・論文・エッセイの違い |
確かめること
- 書こうとしている文章の種類で、「私」がどの位置にあるかを確かめた
- 主張の一つ一つについて、(a)(b)(c) のどれにあたるかを考えた
- (a) には、出典を示した
- (b) には、根拠と筋道を示した
- (c) は、論文では (b) の形に組み立て直した。エッセイや批評では、私の見方とわかるように書いた
- 論文型の文章で、「私」「筆者」を主語に立てていない(書き手自身の行為を書くときを除く)
(例に出てくる文献は、説明のための架空のものです。)